ご覧いただきましてありがとうございます。管理人のnakaと申します。アラフィフのアフィリエイターです。
私は2年前、会社を辞めて専業アフィリエイターとして独立し、2019年12月で年収1500万円を超え、念願かなって法人化しました。
長年1人で黙々とアフィリエイトをやってきましたが、 最近やっと周りを見回す余裕が出てきたので、これからはオフ会に参加したり、少しずつ外とも交流を持ちたいと思う、今日この頃です。
ここではnakaのちょっとだけ、つっこんだ自己紹介をします。
宜しければお付き合いください(*^^*)
目次
プロフィール
写真:横浜にて。友達のTちゃんと
- 名前:naka
- 年齢:53才(2019年12月現在)
- 性別:女性
- 職業:アフィリエイター(専業2年目・法人化しました)
- 収益:月確定で120万~
- 前職業:介護福祉士、営業事務、化粧品・エステ、配管工事士、水商売
- 住まい:名古屋在住
- 商業高校卒
- 子供:2人 長男28歳 長女21歳(2019年12月現在)
- 家族:実父、大学生の娘、私の3人暮らしです。 長男は大学卒業後、独立しました。
- 結婚:×2
- 趣味:旅行、ドラマ・映画鑑賞、カラオケ、お酒、ジョギング、韓国語勉強中
- たばこ:禁煙して12年経ちました。
アフィリエイトの実績
アフィリエイトってなに?
アフィリエイトが何か分からない方の為にザックリ説明すると・・・ Webサイトやブログ、メール、YouTube等、インターネットを利用した成果報酬型の広告の事を言います。 そしてアフィリエイトで稼ぐ人をアフィリエイターと言います。下の画像はnakaの事業用楽天口座の入出金明細のスクリーンショットの一部です。
そして下記はnakaのアフィリエイト収入各社合計(確定後)です。(2015年~2019年)
スマホの表示幅を考慮して千円以下は切り捨てています。
2015年 | 2016年 | 2017年 | 2018年 | 2019年 | |
---|---|---|---|---|---|
1月 | 6万円 | 60万円 | 21万円 | 60万円 | 90万円 |
2月 | 11万円 | 65万円 | 57万円 | 92万円 | 94万円 |
3月 | 13万円 | 40万円 | 65万円 | 81万円 | 104万円 |
4月 | 26万円 | 54万円 | 65万円 | 58万円 | 216万円 |
5月 | 38万円 | 48万円 | 79万円 | 48万円 | 132万円 |
6月 | 37万円 | 53万円 | 55万円 | 55万円 | 147万円 |
7月 | 43万円 | 53万円 | 85万円 | 82万円 | 123万円 |
8月 | 40万円 | 54万円 | 102万円 | 105万円 | 141万円 |
9月 | 63万円 | 49万円 | 80万円 | 96万円 | 123万円 |
10月 | 35万円 | 49万円 | 60万円 | 94万円 | 122万円 |
11月 | 47万円 | 46万円 | 63万円 | 57万円 | 147万円 |
12月 | 30万円 | 42万円 | 66万円 | 59万円 | 107万円 |
合計 | 395万円 | 618万円 | 803万円 | 892万円 | 1552万円 |
介護福祉士をしつつ、副業でアフィリエイトをしていましたが、2017年の9月に会社を辞めて専業アフィリエイターになりました!(長男も大学を卒業し、娘の大学卒業までの学費も貯まった為)
その時の心境は独立の不安も有りましたがそれ以上に自由が手に入った事がもう、めちゃくちゃ嬉しかった! ことを覚えています。
何しろnakaは2人の子供が生後10か月過ぎた後はずーっと正社員で働いて、何度かあった転職の時も間髪入れずに働きづめだったので。
「これで会社に縛られずに誰にも命令されなくて済む!」と思いました。\(^o^)/バンザイ♪
・・でもね、ここに来るまでnakaの人生もそれなりに紆余曲折ありました。
次ではnakaの人生をざっとダイジェスト版でお届けします。※黒歴史注意!!
今に至るまでの人生
名古屋生まれ
名古屋生まれの名古屋育ちです。3人兄弟の長女として生まれました。 妹と弟がいますが他のふたりと比べて私は、運動も苦手だし、残念なことに見栄えもパッとしませんでした。。
何とゆうかぼんやりした子で、運動会の徒競走で、弟や妹は1着の旗の下に座るけど私はビリ・・みたいな。
はっきり言って応援のしがいの無い子供でした。
母親ははっきりした勝気な性格だったし、たぶん私を見て歯がゆかったんだと思います。忙しい生活の中、私が長女だったこともあり、小さい頃からよく怒られてあたられ役も私でした。
それでも、勉強だけは割とできたので中学卒業までは頑張って体育以外は5か4をとっていました。褒めてもらえたし、自分が親に認めてもらえる部分はそこしかないと思い、努力して良い成績をとる事で辛うじて自尊心を保っていました。
それが高校に入学して、プツンと切れてしまったんです。
「もう認めてもらわなくてもいいや」と。
遊び惚けて勉強しなくなり、所謂不良化。遅いデビューでした。
卒業、そして水商売へ
高校を卒業すると実家を出て、水商売に入りました。
トシをとった今だから言えることですが、家を出たのは姉妹で比べられるのがキツかったのもあります。妹は運動ができるだけでなく、凄く美人でスタイル抜群、モデルを頼まれたり、その辺を歩くだけで男の子が3~4人ついてくるほどでしたから。
誰もが妹に見惚れますが次に私を見ると「似てないね・・」と。
私単体で付き合っていると私のパーソナリティーは普通に認められますが、妹を紹介すると私の価値は吹き飛びます。
この事は私を長く苦しめ、コンプレックスで私は自分の価値を凄く低くしか思えなくなっていました。友人なら諦めがつく事ですが姉妹だとそう簡単ではないんです。
もう、このままいては、ダメになってしまいそうでした。
当時は絶対口に出来なかった本音です。そう考えるとトシをとるのも悪いことばかりではないですね。ハウルの動く城のソフィーみたいな心境です。(笑)
気にされると困るから今でも妹には言えませんが。。
私はキャバクラ、クラブと水商売を5年程やった挙句、同じく水商売の相手と結婚しました。
その人はギャンブル依存症だったので後はもうお決まりのコースです。私が働いたお金は全てパチンコや競馬に消えていきました。
そして「もう、別れたい」と本気で思っているところに私の妊娠が発覚しました。
離婚。そして出産
「どうしよう・・」と悩む反面、私の中に確かに授かった命です。
「堕ろしたくない」という気持ちがありました。
心にわだかまりが有ったのですが、思い切って母親に電話で相談するとすぐに「心配しなくていいから帰ってらっしゃい」と言ってくれました。
母はきっとこの親不孝な娘をずっと心配してくれてたんだと思います。
家を出ていった日、涙ぐみながら「いつでも帰っておいで」と見送ってくれた母につれない返事をした親不孝な私。。その時の母の姿を思い出し、感謝と後悔と申し訳なさに電話口で涙が止まりませんでした。。
心が決まってからは行動が早く、数日後、相手がパチンコに行っている間に荷物をまとめて実家に逃げ帰りました。妊娠は6ヵ月目に入っていました。その後、すったもんだした挙句、離婚が成立し、私は実家近くの病院で長男を産みました。
看護師さんが「かわいい男の子ちゃんですよ!」と生まれたばかりの息子を見せてくれた時は本当に嬉しかった。無事生まれてくれた我が子に安堵し、神さまに感謝しました。
それにしても、出産がこんなに痛いものだなんて。
死ぬかと思いました。起き上がれるようになってふと鏡を見たら毛細血管が切れまくって顏がまだらでした。
改めて自分を生んでくれた母に感謝の気持ちが込み上げました。
僅かな額の通帳は手切れ金代わりに置いてきたし、親に出産費用を出してもらっている身分で今後の生活もあります。贅沢するわけにはいかず、病院は4人部屋でした。
産婦人科の4人部屋で周りがみんな幸せそうな家族に見える中、私はわが子を抱きながら「私のところに生まれてきてくれてありがとう。こんなお母さんだけど、両親揃ってる子に負けないくらい大事にするからね。あなたに絶対、不自由はさせない!」と固く心に誓いました。
母は毎日病院に来ては、息子を抱いて飽きることなく眺め「上等、上等。一番かわいいよ!」と言ってくれました。
ガス配管工事士
息子が生後10ヵ月に達した時、私は子供を母に預けて働きに出ました。
母は私の代わりに若いお母さんたちに混ざって水着を着てベビースイミングに行ってくれたり、しっかり息子をみてくれました。おかげで私は安心して働きにでる事ができました。
昼間働くのは初めてでしたが、水商売は考えませんでした。息子の前で胸を張っていたいですからね。
そして私はガス工事の仕事を見つけました。未経験の女性の仕事としては給料が割と良かったので。事務職の給料では息子に人並な事がしてあげられないと思ったからです。
働き始めてすぐに学資保険に入りました。支払いは月々27,000円。これを年払いできる位の給料でした。大した事はしてやれないけど、大学までの教育費です。この子がしっかり生きていけるように、母として教育だけは付けてやろうと思っていました。
ガス工事の仕事は所謂、ガテンの仕事ですから暑い寒いがあります。 冬は指先に何かが触れるだけで激痛でしたし、夏は日に焼けるし暑さで倒れそうです。
ホルソーで穴あけしたり床下もぐったり、ダカダカではつったり、スコップで穴掘ったりでキツかったです。
でも私には意外と合っていました。体力的にキツイのでずっとやれる気はしませんでしたが、ネジ切ってストエル組んでパイレンで締めたり、寸法がビシッと合うと中々面白く、5年やりました。
この仕事は、ネジ配管2級とフレキ配管2級を取得して、給料も月に手取りで27万円程もらい、満足していましたが2度目のダンナとデキ婚を機に辞める事になりました。
二度目の結婚・出産
結婚は相手が初婚だった事もあり、当然相手方のご家族から強い反対がありました。そんな中、両親にも挨拶に行ってもらったり、言い表せないほど迷惑をかけました。
そのかいあって、どうにか渋々了承してもらい、結婚式をどうするかという段階で彼が貯金が全く無く、更にカードキャッシングが128万円もある事が発覚しました。
内心、自分の浅はかさに、ため息が出ましたが今更どうにもなりません。
結局、彼のご両親が100万円、私が28万円負担してキャッシングを清算しました。
結婚式も彼が初婚なので盛大にあげたいとの先方のご希望も有り、挙げましたが彼は貯金がありません。
総額320万円程の結婚費用は私の貯金から出ていきました。
彼のご両親の50万円のご祝儀と招待客のお祝い金は私がもらいましたが、差し引いてもだいぶ赤字になりました。加えて、私が妊娠中で仕事を辞めたので、急な出費やら何だかんだで毎月赤字が5万円程度。
彼の車が燃費が悪いので買い替えると彼が言い出し、その車の購入費。。。
5年間、ガス配管工事士で一生懸命働いて私は息子の為に700万円位貯金していましたが、その大事なお金はあっという間に目減りしていきました。
仕事辞めてから時間があったので自分への投資の為にアビバの23万円のコースに通ったら「何でそんな無駄なものにお金を出すんだ!」と文句を言われて「自分のお金なのにどうして?」ってなりました。
何とか貯金が目減りするのを食い止めようと、アビバで資格をとった後、タウンページを見て出版関係の会社に電話したり、ニフティサーブのフォーラムで仕事をもらってテキスト入力やデータ入力の在宅仕事をしましたが月に3~4万の微々たるお金しか稼ぐ事ができませんでした。
再就職と2度目の結婚生活
そんなこんなで娘を出産し、10ヵ月後から保育園へ預け、私は再び働きに出る事にしました。この時、長男は1年生になっていました。実家のすぐそばに部屋を借りて住んでいたので「学校終わったらおばあちゃんのとこに行ってなさい」と言って働きにでました。
今度の仕事は小さな不動産屋の事務職でした。物件資料や契約書を作るのが私の仕事です。事務員は私ひとりの正社員なのでなかなか休む事はできません。 でもね、小さい子ってすぐに熱を出すんですよね。。
娘を送ってやっと会社に着いたと思ったら、「〇〇ちゃんが熱をだしました」と保育園から電話がかかってきて社長に平謝りで迎えに行ったり。水疱瘡になったり。小さい子を抱えて働くのは本当に大変です。
大変ながらも実家の母に助けてもらいながら何とか続けて、多少の余裕ができ、息子が2年生の3学期にさしかかった時、彼の実家の近くにマンションを買う事になりました。「どうせ、家賃を払うならマンションを買ってローンを払った方がいい」という事になったのです。
けれど、ローンを払うには私が仕事を続けなくてはなりません。私は子供が2人とも小さいので自分の実家の近くにしたいと主張したのですが彼が「子供が熱を出した時は自分の親がみてくれるから」と自分の実家の近くにと押し切りました。
私が頭金の200万円を出して購入したマンションは実家まで車で1時間くらいの距離です。結局、娘は度々熱を出したけど、すぐ近所の彼の実家ではみてもらえず、私は仕事前と仕事後に1時間かけて実家の母に子供を預けにいきました。娘が保育園で熱を出した時も実家の母が1時間30分もバスを乗り継いで迎えに行ってくれたり。。
息子が2年生の3学期で「お友達と別れたくない」「どうしても転校しなきゃならないの?」と言ったのに転校させた事も苦しかったし、仕事終わって保育園行って帰りが7時過ぎとかなるのにひとりで息子を待たせるのも本当に辛かった。
彼の仕事はボーナスが出ても年1回で金額も10万円程度だったですがそれさえも。結婚生活の間に何度も「出なかった」とか「会社のカメラ壊したから弁償しなくちゃならない」とか嘘をつかれて萎えました。
年末に家族4人でアピタに買い出しに行った時も彼は手ぶらで前を歩き、私は息子の手を引いてベビーカーを押し、買い物の荷物を持って付いていく。。 挙句の果てにイライラして駐車場で車をぶつけてそのまま逃げたり。 彼は子連れ女とデキ婚して後悔していたのかもしれません。
起きた事に対する尻ぬぐいは何時もわたし。話し合おうとしても弁がたつし、機関銃トークで逆切れされて話し合いにならず私は寝不足のまま娘を保育園に送って会社に行く。。話し合う気は失せ、徐々に心は離れていきました。それから10数年の間にはさらにいろいろありました。
でもやっと環境に慣れてきた子供を転校させたくないし、環境を変えたくなかったので黙って耐えていました。
母の死
全く予想もしていなかった突然の事でした。 仕事先が倒産したり、何だかんだで職場を何度か変わり、その時私は特別養護老人ホームで介護福祉士をしていました。
遅番勤務が終わり、PM10時20分頃。家に帰ろうとすると携帯電話が鳴りました。出ると実家の父で、自宅で母が急に脳梗塞で倒れて病院の救急にいるというのです。
慌てて病院に行きましたが医者が施した血栓をとる薬も効かず、母は起きたり倒れたりの反射的な動きを繰り返すばかりで、もう私や父を見る事も話を聞くこともできない状態でした。医者からはここ3日が山場で助かっても回復は望めないと言われました。
翌日私のシフトは夜勤でしたが急な事で代わりがおらず、休むことができませんでした。入所者の世話をしながらも、「私がここで仕事をしている間に母が亡くなったらどうしよう」と始終涙が止まらず、とても仕事どころではありませんでした。
泣きながら夜勤をこなし、病院にとんで行きました。夜勤の後、仕事は1週間休みを貰えたけど3日のうちに母は亡くなり、親戚が来て葬式をしてあっという間に母は骨になりました。茫然としている間に全てが過ぎてその時の事はよく覚えていません。
こんな事ならもっと頻繁に実家に顔を出せば良かった。毎日の生活に追われてなかなか実家に足が向かなかった自分。
母からは本当にたくさんの愛情を貰ったのに、心配をかけるばかりで、何ひとつ親孝行ができていない自分。。 母娘で一緒に温泉旅行に行ったりもっと話をしたり一緒にいたかった。
後悔ばかりが先に立ち、ここから4年くらいは運転中もお風呂に入ってても一人になると何をしてても涙が溢れて溢れて。
親不孝な娘でごめんなさい。いっぱい心配かけてごめんなさい。たくさんの愛情をありがとう。私たちは大丈夫だからどうか安心して眠ってください。
2度目の離婚
高齢の実父が一人暮らしになって、私は休みの度におかずをたくさん作って持って行ったので前より益々忙しくなりました。何れ、一緒に住む事ができないか彼に相談しましたがそれは「簡単に返事するわけにいかないから」と流されました。答えは予想していましたし、仕方のない事ですが。
私は数年前から副業としてアフィリエイトを始めていたので、仕事と家事、実家に行く以外は睡眠時間を削ってずっとパソコンに向かう毎日でした。「パソコンずっとやっとらないかんのか!」と彼は度々嫌味を言ったりしていましたが、馬耳東風です。私を助けてくれるのは彼じゃないって思ってました。
すでに結婚前の貯金は使い果たし、働いても働いても楽にならない自転車操業のようなこの生活。少しずつですがアフィリエイト収入が増えてきていましたし、私は自分の事を自分で助けるしかないって思っていました。
しかし、2度目の離婚のきっかけは不意にやってきました。
又もや彼のキャッシングが発覚し、口論になった挙句、彼が「別れよう!」と逆切れしました。既に彼に対する気持ちは冷めていました。でも・・息子は大学生なので私の実家に帰っても大丈夫ですが娘が中学3年生です。
その大事な時期に転校のストレスなんて絶対与えたくありません。私は娘と一緒にお風呂に入りながら「お母さん我慢したけどもうダメかもしれんわ」と零したら「転校は避けて欲しい」と娘が言いました。
アフィリエイト収入を入れれば転校しなくて済むように何とか学区内に部屋を借りる事ができるけど、まだギリギリで、心もとない状態でした。私は涙を飲んでじっと我慢しました。
彼は自分が言った事も忘れたかのように振る舞い、2~3ヵ月過ぎましたが、何気ない事で再度口論になりました。そして彼がまた「別れよう!」と言った時、私の中で何かがプツンと切れました。大きな声で彼に「そうさせてもらうわ!」って返しました。
私は子供の事を考えてまだまだ我慢する気でいたけど彼はそんな事も考えず、簡単に「別れよう」と口します。そんな彼にすっかり頭にきていました。気分で家族や物に当たり散らす性格も嫌だったし、顔色を見ながら暮らすのも嫌でした。いろんな事が雪のように降り積もってもう我慢の限界でした。離婚すれば実家に帰って実父もみれるしね!とも思いました。
一度口にすると何だかふっ切れてしまって離婚届を用意したり、マンションの連帯保証人を抜いたり、公正証書を作ったり離婚に向けてどんどん進んでいきました。彼は本気で無かったらしく、狼狽えていましたが今更謝る事もできず引くに引けず離婚届に判を押したかたちです。
「俺も悪かったがお前も悪かった」というふうに話をもって行きたかったようですが私が「もうムリだし」で押し通し、「離婚届出した」と言ったら茫然としていてちょっと可哀そうな気もしました。
転校を避ける為に、離婚後もしばらく同居を続け、娘が高校に慣れた頃の1年の夏休みに出ていく事にし、それまでは生活費は全て折版で家庭内別居って事で話がつきました。
彼のご家族は結婚当初こそ反対されましたが後半は彼抜きで時々食事に誘ってくれたりするようになっていました。「離婚を考えているからこれ以上好意を受けられない」と言った時も真剣に話を聞いてくれ、応援までしてくれました。
彼のご両親なのだから普通なら私の事を憎んでも当たり前なのに。
離婚後も年に1~2回娘を挟んで居酒屋さんで食事したりもしています。
私もお中元お歳暮を欠かさず贈っています。よくしてくれたので申し訳ない気持ちでいっぱいです。
意外な事に離婚してから彼は娘の養育費を欠かさず振込んでくれ、娘が大学に入学し、金額が3万から5万に上がる時も忘れませんでした。
電話で話した時に「忘れなかったね。やっぱり親だったね」って言ったら照れ臭そうに笑っていました。年末年始など、年に何回か娘が泊まりに行きますが、その時も一緒に暮らしていた時よりずっと優しくなったようです。
悪いところばかりでは無かったし、優しいところもありました。私は彼が好きでした。長年夫婦として一緒に暮らしてきたから、やっぱり情もあります。離婚は心身ともに疲れますね。
でも、いくら考えてみてもやっぱり彼とは上手くは行かなかったでしょう。上手くいくものなら一緒にいる間にいくらでも修正できる時間があったわけですから。
アフィリエイトが上手くいきだした!
2014年の8月に実家に帰ってからアフィリエイトの売上がどんどん上がるようになってきました。
彼の言動でイライラする事が無くなったし、心が安定して仕事に集中できるからだと思います。結局、誰かを恨んだり人のせいにしても同じ事をぐるぐる考えるばかりで進歩が無いし、良い事はひとつも無いんですね。
それに母も天国で応援してくれているのかもしれません。
今後の目標は法人化する事と子供たちに迷惑をかけないように、老後の資金の確保。それから自分の周りの人くらいは助ける事のできる位の資金力を持つことが目標です。
アラフィフの私ですがこれからもっともっと新しい事に挑戦したいし、年齢に抗って見た目も若く素敵でありたい。そして家族といつまでも楽しく暮らしたいです。
最後に
如何でしたでしょうか?
数々の失敗と黒レキシのオンパレード。
改めて振り返ってみると、自分でも結構ディープな人生だと思いました。
これを書きながら当時の出来事や思いが蘇って、何だか胸の奥が酷く痛かったり、懐かしかったりもしました。
私の数ある失敗は全て自分が蒔いたタネの結果です。
ですが、人は成功よりも失敗から学ぶ事の方がずっと多いんだと思います。
つまり、何度でもやり直せるという事。
間違えて痛い思いをしても死ぬほど後悔すれば次に生かせるし、何度でもやり直せる。
皆さんは私なんかよりずっとずっと上手に生きていらっしゃるだろうと思います。
ですがもし、あなたが今の経済状態がキツかったり、仕事に不満があるならアフィリエイトを始めてみては如何でしょうか。
今はインターネットやユーチューブ等、個人が気軽に発信できるツールがあって大企業でなくとも、資金力が無くても、パソコンさえ有れば誰でもチャンスが掴める良い時代です。
アフィリエイトは普通の事業と比べると低資金で始められて、びっくりするくらい収益率の高い仕事です。勉強を厭わず、やり続ければ誰でもリベンジできるし、ワンチャンあると思います。
会社勤めでも副業として傍らで始められます。私も最初は副業から始めて専業アフィリエイターになり、時間的自由、経済的自由を手に入れました。
年に何回か家族を旅行に連れて行くくらいはできるようになりました。
これは今年家族で行ったグアム旅行です(^-^) 母も連れて行きたかったな。
ここまで読んでくださったあなたは分かったと思いますが私は馬鹿で不器用で、大した取り柄もありません。
私のアフィリエイトの収益が上がった要因は諦めずに「これしか無い!」と思ってやり続けたから。
これに尽きます。正にピンチはチャンスですね!
私ができたからきっと、あなたもできると思いますよ。
最後までご覧頂きましてありがとうございました。